自分好み· 11日前

文鳥を食べた日

(読み)ブンチョウ スズメ目カエデチョウ科の小鳥。全長約13センチメートル。野生種は頭は黒、頰は白、くちばしは紅色、他の部分は灰色。東南アジアに広く分布。飼いやすく、人によくなれる。ハクブンチョウ・サクラブンチョウなど。(大辞林第三版 三省堂)

2015年10月24日(日曜)。

当時付き合っていた彼女──森瀬の家にお邪魔して、昼飯を頂いた直後だった。

「別れよう」

フローリングに胡座をかいたまま、彼女は云った。

僕は、昨晩の残りであろう肉野菜炒めとチョコチップスティックパンで膨れた腹を擦りながら、その言葉を聞いていた。

「嫌だ」

彼女の部屋には、ファブリーズの匂い。平べったい机の銀色の四脚。ピカピカの秘書検定の参考書。麦茶のグラス。ひび割れた卓上ミラー。雑誌を片付けたつもりのダンボール。取りそこねた髪の毛。鼻セレブ。開けてはならないクローゼット。眠るキーボード。

そして鳥籠があった。

「どうしても別れるというなら」

僕は咄嗟に鳥籠を開けて、むんずと文鳥を握った。

「こいつを人質にする」

「やめて」

文鳥を右手に乗せ、脅すように覗き込む。小さな体躯は白く、尾に至るほど黒が混じっていき、その色を濃くしている。顔には、コンパスで描いたような黒眼。その円周には、やや橙色のしみがある。そして嘴は無花果の肉のよう。怯えからか、パチパチと忙しなく震えている。

森瀬が、取り返そうとにじり寄る。

「フミちゃんを返して」

僕は、距離をとって扉まで後退した。

「君と別れたくない」

と、そのとき。

扉が勢いよく開かれた。

「おねーちゃん! ママがお菓子だって!」

犯人は森瀬の妹だった。

ガツーン、と僕の後頭部に直撃する。押されるようにして、僕は正面へと倒れてしまう。

すってんころりん。そのまま一回転。

「……大丈夫?」

森瀬の声を聞いて、慌てて立ち上がる。大分恥ずかしい姿を見せてしまった。机なんかは上手く避けられたようで、目立った被害はなさそうだった。

安堵したのも束の間、

「フミちゃんは?」

と森瀬が青ざめた顔で訊いた。

右手を見る。もう乗っていない。辺りを見回すも、見当たらない。

もしかして踏んでしまったのか? そう思って靴下の裏を確認するも、いない。

「フミちゃーん!」

森瀬が不安げな声で呼びかける。

すると、

「ピピピピ」

僕のお腹のなかから鳴き声がした。

「うわぁ」妹が叫ぶ。「食べちゃった!」

あははははは! と騒ぎながら、妹は部屋を飛び出して階段を駆け下りていった。

「……」

絶句する僕ら2人。

「……は、吐き出して」

森瀬が震える手でお腹を指してくる。

「ははは早く!」

「無理だよ、そんな」

吐けと云われて出せるものではない。

「じゃあ……、とりゃあ!」

森瀬が、下腹部辺りを狙って正拳突きを食らわせてきた。

鈍い痛みが身体に響く。

彼女は腰を落とすと、ゆっくり息を吐いてから、右、左、と拳を連発しだした。

「とりゃ! とりゃ! とりゃ!」

「ま、待って……。死ぬ、死ぬから……」

「あんたは別に死んでもいいから! フミちゃん! フミちゃんを返して!」

「ち、ちが……。鳥! 鳥が潰れて死ぬから!」

ピタッ、と身体を止める彼女。

「それもそうね。でも、どうやって助ければいいの? 早くしないと消化されちゃう」

ある考えが浮かんだ。

「そうだ、あれを使おう」

森瀬の案内で家の物置まで行き、掃除機を引っ張り出してきた。

「これだ」

「なるほど」

彼女がホースを抱えるようにして、スイッチを握る。

僕は廊下に膝立ちとなり、向けられたパイプをカポッと咥えた。

そしてスイッチが押される。

いきなり強だった。

「──────ッ!?」

喉が裏返ってそのまま口からまろび出てしまうんじゃないかと思った。胃を洗う蛙のイメージだ。唾液やら鼻水やらが全て吸われて消えていく。そして食道の奥の方で、なにかが暴れているような違和感があった。

しかし……。

壁をバンバンと叩いてギブアップの旨を伝える。

程なくして、そのモンスターズインクみたいな拷問は終わった。

森瀬が、紙パックを取り出してなかを覗く。しかし、そこには粘ついた羽毛が数枚張り付いているだけであった。

仕方ないので病院で診てもらうことにした。仔細を伝えると、医者はしばらく笑い転げてから「レントゲンを撮りましょう」と云った。

「御覧ください」

そして印刷された僕のレントゲン写真が、シャウカステン(ぼんやり白く光ってる例の掲示板)に貼られた。

半透明な背骨と肋骨が写っている。胃の辺りは、臓器かなにか分からないけれど白く塗りつぶされている。

そして中央には、綺麗な鳥のシルエットが羽ばたいていた。

「本能のなせる技でしょうか……。狭い胃のなかで滞空し、なんとか消化を免れているようですね」

いやはや、と医者が関心したように首を振る。

森瀬は安堵の息を漏らしていた。

「しかしですね」医者は鹿爪らしい表情を作った。今さら雰囲気を出そうとしても無駄である。「掃除機で吸っても出てこないとなると、諦めるしかありません。腸から出ようにも、確実に消化されてしまいますから。この文鳥のことは忘れて下さい」

病院からの帰り道、森瀬は肩を落としてトボトボと歩いていた。気の毒そうなその後ろ姿に、僕は若干の罪悪感を覚えて、上手く言葉がかけられない。

やがて電車のホームに着いた。ホームドアの前で、点線に沿って二人で並ぶ。

「……フミちゃんって名前はね」

前にいる森瀬が、ポツリと云った。

「博文から取ったの」

「博文?」

「私のお父さん。……三年前に死んだけど」

そのことは聞いていた。ショックから自律神経を失調し、彼女は保健室登校になった。僕は保健委員として何回か顔を合わせる内に、仲良くなったのである。

「──絶対に取り返す」

彼女が、くるりと振り返る。

その双眸には決意の火が灯っていた。

「来て!」

やにわに僕の手を掴んで、引っ張り、列を離れていく。そしてホームの反対側に到着していた電車へと飛び乗った。

「としまえんに行くわ」

その頃はまだとしまえんが健在だったのだ。

有楽町線の豊島園駅で降りて、駅前にあるファミマで午後の紅茶を買ってから、木々の間へとずかずか歩いていった。としまえんはその奥にある。

入園し、左手から聞こえる水音と黄色い声を無視して道なりに進む。見上げてしまえば、脳みそみたいに入り組んだウォータースライダーがある。そのまま川を渡って、直進していくと、メリーゴーランドに突き当たる。そこを左に曲がると、視界の先で巨大な船が飛んでいった。バイキングだ。

フライングパイレーツとも云う。

「あれに乗って」

なるほど、と森瀬の魂胆を理解する。

そして乗り物一日券の効果で5回ほど連続で乗り、途中3回ほど嘔吐した。

嘔吐しすぎると何も出てこなくなるのだと知った。酸っぱい液体が少量、胃から絞り出されるだけだ。脇腹が痙攣している。舌の根本が苦い。

文鳥は出てこない。

諦めて、僕らはベンチに座った。

森瀬はがっくりと肩を落としていた。そして風船を片手に走り抜けていく子供を、恨めしげに睨んでいる。

財布を渡してきた。「吐いたもん補充したら?」彼女なりの気遣いらしい。

僕は近くの売店にいき、カップアイスを買うことにした。

「味はどうなさいますかー?」

決めてなかった。カウンターに敷かれたパウチ加工済みのメニューを見下ろす。

上から順に、バニラ、チョコ、イチゴ、バナナ、抹茶、クッキー、文鳥、とあった。

「文鳥?」

「はい、文鳥味ですね」

ウィーン、と売店の奥から音がして、店員が黒いカップを持って出てきた。

「324円です」

高めだった。

ベンチに戻り不可解なアイスを森瀬に見せると、なんと彼女は驚かなかった。

「有名よ、それ」

彼女は、アイスを掬った棒を僕から引ったくり、一口ぱくりと食べた。

「んまい」

「どんな味がするの」

「……消臭剤?」

食べてみると、云わんとしていることは分かった。不味くはない。

「なんで文鳥の味なんて作ったんだろう」

「小鳥はね、食べるものなのよ。口に含むと癒やされるの」

「森瀬さんも?」

「うん」

そう聞くと、腹のなかに文鳥が収まることも往々にしてあるのではないか、と思った。しかし口に出すとはたかれそうなので黙っていた。

彼女はおもむろにリュックサックから大きめの袋を取り出した。青くて、鳥のシンプルなイラストが描かれている。ジッパーを開けて、なかから種みたいな物体を数粒つまみ上げた。

「食べて」

「エサ?」

応えずに、彼女は種を口に突っ込んできた。仕方なく飲み込む。乾いた感覚が喉を通っていった。

念の為、ということで十粒ほど食べた。腹のなかで上手くキャッチしていることを願う。

「水飲むときは気をつけてよ」森瀬が云う。「濡れたら飛べなくなるかも」

「あれ、これ、食事もできない感じ……?」

「ラーメンとかは止めたほうがいいかも。ソイジョイで済ませたら?」

お金はあげるから、と財布を見せる彼女。責任を感じているのだろうか。

元を辿れば、悪いのは僕のような気もするが……。

森瀬がふと立ち上がり、歩き出した。慌ててアイスをかき込んで、後を追う。

彼女は射的の屋台の前で止まった。

「大人一人」

と云って百円玉を3枚手渡した。

ややあって、ワインの残骸みたいな弾丸が6つ、灰皿に乗って現れた。

それを森瀬が銃口に詰める。銃身をカウンターに押さえつけるようにして、レバーを下ろし、装填。僕はそのレバーが持つ反動で歯を折ったことがあるので、ヒヤヒヤして見ていた。

彼女がコルク銃を構える。

狙いは二段目の棚にある大きめの箱だった。

右下、左下、また右下、と彼女は器用に当てていく。ちょっとずつ後退していった箱は、やがて後ろへと落っこちた。

「もういいです」

箱を受け取った彼女は、残り2つの弾丸を置き去りにして歩いていった。

再びベンチに並んで座る。

青いレールが視界を横断している。その上を、ジェットコースターが騒がしく通り過ぎていく。

「これは」

森瀬が、おはじきのようなものを見せてくる。リュックサックのポケットに入っていた。

「フミちゃんお気にいりの玩具。よくこれをつついたり、足で掴んだりしてる」

そして先程の射的で獲得した箱を開封。なかには、おもちゃが入っていた。小さなたこ焼き機みたいな丸い装置には穴がいくつも空いており、それぞれが魚の住処となっている。電源を入れると装置が周り、底にあるデコボコが引っかかることで、魚たちがパクパクと口を開ける仕掛けだ。その開いた口のなかにある磁石へと、同じく先端に磁石の付いた糸を垂らすことで、擬似的な釣りが楽しめるという寸法だ。

森瀬は釣り糸の先をおはじきに巻いて、キツく縛った。

僕はそれを飲み込む。

後は文鳥が食いつくのを待つだけだ。

口から糸が伸びて、そのさきにあるゴムのグリップを森瀬が握っている。

そのまましばらく二人で静かにしていた。

何も喋れないので空を眺めていた。大きな雲が穏やかに流れている。そよ風が吹く。ドアーズの曲がかかっている。ジェットコースターは何度も流れていく。バイキングはもう見たくない。

時折、通りかかった人が不思議そうに首を傾げていた。

「……昔、お父さんと来たことがあって」

退屈したのか、気まずいのか、森瀬が口を開いた。

「私がチュロスを食べてたら、カラスがいっぱい寄ってきて、襲われたんだよね」

横を見ると、懐かしそうに目を細めていた。優しげな笑みをたたえている。

「近くの売店に並んでたお父さんがすっ飛んできて、カラスたちを追っ払ってくれたんだ。もう、めちゃくちゃだったよ」

そのとき、くいっと糸が動いた。

ウッ、と僕がえづく。

「きたっ」

森瀬がグリップを思い切り引く。そして、釣り糸は僕の食道からずるりと引き出された。

その先端には、変わらずおはじきが付けられているだけだった。

「……失敗しちゃったね」

涎を拭いつつ、気遣う。

森瀬は首を振った。

「確かに、掴まれた感触があったのに……」

「今日のところは解散しよう。なに、夕飯はソイジョイで我慢するさ」

彼女は口惜しそうに顔を歪めて、しぶしぶといった感じで首を縦にした。

「明日、午前中に高校サボって病院行きましょう」

「そうだね」

僕は鳥の餌袋を受け取った。リュックサックなどはないので、両手に抱えるようにして帰宅した。

夕飯時と寝る前に6粒ほど飲み込んだ。 布団に入って横になると、腹からピピピと聞こえてきた。

「気に入っているようですね」

医者の言葉に、僕らはあんぐり口を開けた。

「勝手に餌が降ってくるし、外敵もいない。おまけに温度も丁度いいときている。文鳥がいついてしまうのも仕方ないでしょう」

それは困った。

僕は一生ソイジョイしか食べられないし、彼女はフミちゃんと暮らせない。

「取り出すなりなんなりするなら、急いだほうがいいでしょうね」他人事のように医者が云う。「文鳥の体力がいつまで持つかも分かりませんし……。何より、小鳥は本能的に馴染み深い場所へと向かいます。あなたの腹がそうなってしまったなら、取り返しがつきません」

「あの!」

森瀬が叫ぶ。その声は裏返っていた。

「……手術をするとしたら……、幾らくらいかかりますか」

「そうですね」医者が、ふむ、と居住まいを正した。「おおよそですが──40万、とかではないでしょうか。このケースだと、恐らく保険が効きません」

「……」

彼女の目が絶望に染まっていくのが分かった。肩が震えている。しかし、そっと抱き寄せる権利は既にないような気がした。

25日の午後。

授業が終わり、放課後になった。

森瀬から家庭科室へ来るよう指示を受けていたので、大人しく向かうことにする。

「これ食べて」

用意されていたのはオムライスだった。

「なにこれ」

「いいから」

「手料理?」

「そう」

木製の椅子に座り、オムライスと対峙する。ケチャップはかかっていない。黄色くて楕円形の、至極一般的なものに見えた。

森瀬から洗いたてのスプーンを受け取る。一口サイズに切り分けて、食べた。

「うっ」

途端に鼻を突く、強烈な異臭。これは、まさか──。

森瀬が鼻を押さえながら、机に一つの赤い缶を置いた。開けられて、中身は既にない。

「シュールストレミング」

鼻声で彼女が云う。

「腹の中を最悪にしてやれば、フミちゃんも出てくるんじゃないかしら」

「な、なるほど……」

そうとあらば、とオムライスをかき込んだ。以外にも味は悪くない。それに森瀬の手料理だということも相まって、すぐに完食できた。

「はい」

満腹感から机にもたれかかる僕に、噛むブレスケアを渡してくる。口のなかで弾けてお腹にまでは届かないタイプのものだった。

「どうかな……。フミちゃーん?」

森瀬が、そっとお腹に耳をつける。

ピピ、と鳴き声がした。

「これでさ」ふと気になって訊いてみる。「これも駄目だったら……いよいよどうする?」

森瀬は黙った。息を止めているみたいだった。

そして家庭科室の奥へ消えた。

「……森瀬……?」

不安になり、声を投げる。

すっかり日は暮れ、窓の外は橙色だった。文鳥の目を思い出す。グラウンドから野球部の声が響く。家庭科室は蛍光灯の光で白い。

森瀬がゆらりと戻ってくる。

その手には包丁が握られていた。

「待った!」

思わず立ち上がり、叫ぶ。

「それは駄目だ!」

「大丈夫、死なないから……」

森瀬がひたひたと歩み寄ってくる。包丁の切っ先は、僕を捉えて輝いている。

「救急車呼んでから刺すから」

「そういう問題じゃない」

「……なんてね」

森瀬が肩をすくめた。

「流石にこんなことはしないよ」

冗談だ、という風に包丁を振って見せてくる。

「……だよね」

ホッと胸を撫で下ろす。森瀬は妙に行動力があるので、刺されても可笑しくないと思ってしまった。

しかし笑い事ではない。

このまま本当に文鳥が出てこなければ──そして森瀬を悲しませないためには、僕は腹を割くに至るべきなのかもしれない。何か、安全に文鳥をサルページする方法はないのだろうか。

なんて考えていると、

「きゃぁ!」

ドアの方から悲鳴が聞こえた。

見ると、一人の女子生徒が廊下から覗いていた。

彼女は、腰の引けた僕と、包丁を持った森瀬を交互に見てから、こう叫んだ。

「テロだー!」

それからはあっという間のことだった。

真夜中であるにも関わらず、高校はきらきらと輝いている。それもそのはず、大量に集まったパトカーやら救急車やら消防車やらの発する光をこれでもかと浴びているからだ。そしてライブ会場のように騒がしい。機動隊や消防団、そして地域の野次馬達が、ここぞとばかりに一堂に会しているからだ。

いつの間にか、森瀬は立て籠もり犯ということになってしまった。

こんな状況では出るに出られず、僕らは家庭科室で途方に暮れていた。森瀬は「腹が減った」と云ってカップラーメンを食べていた。僕も食べたかったが、文鳥を火傷させてはいけないので水を飲んで誤魔化していた。

「どうしたもんかね」

窓の外の喧騒を尻目に、森瀬は面倒そうに溜息をついた。

「聞こえるかー」

響く拡声器。齢を感じさせる低い男の声だった。交渉役ということか。

「君は何が目的なんだー」

森瀬は立ち上がり、家庭科室の窓を開け放った。

そして叫んだ。

「オペだ!」

その言葉に、グラウンドを埋め尽くす人々が水を打ったようになる。

沢山のライトが彼女に向けられた。

「コイツの腹から、さっさとフミちゃんを取り出してくれ!」

云うだけ云うと、ピシャリ、窓を閉めた。

30分くらいしてから、ドアがノックされた。

「はーい」

開けると、そこには暗闇があるばかりで、誰も立っていなかった。

否、人はいた。

しかし服装があまりにも真っ黒で、気が付かなかったのだ。

「どうも、医者です」

頭上から声がする。見上げると、ペストマスクがあった。かなり身長の高い医者だった。

黒コートをはためかせ、そいつは足音もなく入室してきた。

「では、ここに寝転がって下さい」

ペストマスクは手際よく机を並べると、そこにこれまた真っ黒な布を被せた。簡易的なベッドのつもりであろうか。仕上げとして、アルコールスプレーを周囲に撒いていた。

「ここでオペするの?」

森瀬が不安気な表情を浮かべる。

「はい」

ペストマスクの奥から、くぐもった声がする。男のようである。彼はコートのなかから、革の長財布みたいなものを取り出した。それを机の上に置いて、ぱらりと開く。メスやペアン鉗子などが差し込まれていた。携帯型の医療用具入れのようだ。

僕は指示通りに寝転がった。椅子はゴツゴツとしていて背中が痛い。それに不安定だった。今からここで手術を受けるなんて、なかなか怖い。

「麻酔は注射で行います」

ペストマスクが、一本の注射器を掲げる。なかに満たされた透明の液体を、蛍光灯の光で透かしている。全身麻酔だろうか。そうであって欲しい。

「大丈夫?」

森瀬が心配そうに覗き込んできた。

「……ごめんなさい」

そして、泣きそうな声で謝る。

「私のフミちゃんが、あなたのなかに入ったせいで……」

「違うよ」僕は笑った。「僕が食べちゃったんだ」

そして彼女に手を伸ばした。

「手を握っていてくれるかい?」

「……今だけね」

森瀬はそっと握り返してくれた。

「では、麻酔をしますよ」

そう云って、ペストマスクが僕の肘辺りを掴んだ。裏返して、血管を探るようにニギニギしてくる。少しくすぐったい。やがて一箇所をつまみ上げて、そこに針の狙いを定める。

──と。

彼の黒いコートが、はらり、床に落ちた。

なかに着ていたのは同じく黒い服だった。しかし妙に角張っていて、ポケットが多い。

そして森瀬の目撃したその背中には、

「ポリス……?」

POLICE と書かれていた。

「森瀬!」

僕が叫ぶや否や、ペストマスクが彼女に飛びついた。

二人が床へ倒れ込む。

「痛っ……!」

慌てて身体を起こす。家庭科室の床で、ペストマスクが森瀬を組み伏せていた。彼女をうつ伏せの態勢にさせて、その腕を背中に回し、押さえつけている。

「これで一安心です」

ペストマスクが僕を見上げた。嘴の先端の曲線が揺れている。

「犯人は取り押さえました。じきに他の連中も来るでしょう」

淡々とそう述べた。

森瀬は顎を床につけて、痛そうに身を捩っている。なにかを言い返そうとしているようだが、喉も圧迫されているのか、上手く声が出せていない。

そんな様子を見て、僕は、

「──離れろ!」

足元に転がっていた注射器を拾い上げ、そのペストマスクの首元へと突き立てた。親指で、強引にブランジャーを押し込んでいく。麻酔を打ち込まれた彼はしばし驚愕で固まった後、両手で注射器を弾き飛ばした。その隙に、森瀬が拘束から抜け出す。

やがてペストマスクは、首元を手で抑えたままパタリと倒れて動かなくなった。

その無様な格好に、悪いことをした、と僕は反省する。合掌。

「……」森瀬は呆気にとられていた。「……どうも」

ちょっと咳き込みつつ、他人行儀な会釈をしてくる。その頬は少し赤かった。

しばらく家庭科室で待ってみても誰も来なかった。作戦の成功が向こうに伝わる仕組みだったのかもしれない。ペストマスクが沈んだ今、その方法は僕らに分からない。

「出ようか」

「うん」

短い会話を交わし、学校から出ることにした。この場合、投降というのだろうか。しかし悪いことは何もしてないはずなので、時間さえあれば何とかなるだろう。

廊下を進み、階段をそっと降りて、昇降口までやってきた。昼間の喧騒が嘘のように、二年生用の下駄箱は静かに眠っていた。

ガラスドアはグラウンドに面しているため、チカチカと眩しい。

ふと、森瀬が2歩だけ前に出た。振り返る。顔は逆光で見えない。そのまま立ち止まってしまったので、何だろうと近寄ったら、キスをされた。

瞬間、僕は強い嘔吐感を覚えた。

彼女の肩を掴み、唇を引き剥がす。

その異物は無理矢理食道を迫り上がってきて、やがて口から飛び出ると、そのまま目の前にいる森瀬の半開きの口へと突っ込んだ。

文鳥の小さな尻が彼女の唇からこぼれている。

森瀬は目線を下にやり、状況を理解してから、笑った。

その後、彼女とは一ヶ月ほど続いた。 ある肌寒い日に「もういいかも」とラインがきたので、「そっか」と返してそのまま別れた。